第6章 私をアレルギーにさせて、私は彼女に感謝しなきゃいけないの?

五分後。

黒いランドローバーが病院へ向けて疾走する。後部座席で中野航平は冷え切った顔のまま、腕の中の女を瞬きひとつせず見つめていた。

まぶたがわずかに揺れただけで、彼は気づく。

「長谷川栞、起きろ」

長谷川栞は中野航平の体から漂う、淡い爽やかな香りを吸い込みながら、ゆっくりと目を開けた。

自分が彼の膝に座らされ、胸に抱かれていると知る。

深い瞳と視線がぶつかった瞬間、男の目に一瞬だけ安堵――いや、喜びにも似た光が走った気がした。

「お前……」

だが、その光はすぐ沈む。

長谷川栞の瞳に宿っていたのは、冷めた無関心だった。

彼女は一切の未練も見せずに中野航平の腕を抜け、わざと隣へ移って距離を取る。

中野航平は眉をつり上げた。いつもの拗ねだと決めつける。

「長谷川栞、いい歳して何やってる」

「アレルギーがあるなら病院に行け。わざわざ俺と蓮の前で倒れて、心配させて、みんなに構ってもらわないと気が済まないのか!」

この二日、彼女の冷たい態度に苛立っていたせいか、本来なら出るはずの気遣いは、口をついた瞬間に責め言葉へ変わっていた。

長谷川栞は両手を膝の上でぎゅっと握りしめる。窓の外へ顔を背けた頬が、すっと青白い。

その様子が逆に気に入らない。中野航平は舌打ちし、顎を掴んで無理やりこちらへ向かせた。

「喋れ!」

「身体を傷つけてまで芝居して、こうして病院に連れてきてもらったのに……何だ、その顔は」

長谷川栞は歯を食いしばり、彼の手を叩き落とす。自嘲気味に笑った。

「芝居……?」

「中野航平。私が花の匂いにアレルギーだって、忘れたの。それとも、知らないふり……?」

中野航平は眉を寄せる。陰った顔がさらに冷え、彼女を見る目は『また始まった』と言いたげだった。

……もういい。

言ったところで、何が変わる。

車内の別の視線に気づき、長谷川栞は前を見た。

助手席で中尾美希が無垢な顔のまま、この騒ぎを眺めている。隣では中野蓮が彼女に寄りかかっていた。

長谷川栞が視線を向けた瞬間、蓮は不満げに唇を尖らせる。大げさにするな、邪魔をするな――そう言いたげに。

父子は、彼女が倒れた瞬間、心配するより先に『苦肉の策だ』と決めつけた。しかも彼女が中尾美希に当たらないよう、無言で庇うように寄り添っている。

「栞さん、大丈夫ですか?」

中尾美希は涙を浮かべ、心配そうに水を差し出した。「もうすぐ病院です。中野社長も蓮も、私も一緒に――」

「パチン」

差し出された手を、長谷川栞が容赦なく叩き落とした。

中尾美希が小さく呻き、白い手の甲が赤く染まる。

「ママ! なんでいつも美希おばさんいじめるの! もうママなんて大嫌い!」

中野蓮が甲高い声で叫び、中尾美希の手を握って小さな口でふうふうと息を吹いた。

「ふーふー……美希おばさんの痛いの、飛んでけ……」

長谷川栞の唇が震え、言葉が出ない。目を閉じた。

胸に刃が突き立つ。

幼い頃、蓮はよく転んだ。そのたびに泣きながら栞に抱きつき、栞は擦り傷に息を吹きかけた。

「ふーふー。ママの息で、痛いの飛んでけ」

それだけで蓮は泣き止み、また走っていった。

今、その仕草を別の女に向けている。

――滑稽で、残酷だった。

父子は気づかない。中尾美希の瞳の奥に浮かぶ得意げな色も、長谷川栞と目が合った瞬間に走る、あからさまな挑発も。

「もう、蓮ったら優しい」

中尾美希は健気に笑ってみせる。「美希おばさん、もう痛くないよ。栞さんも、そんなに力入れてないし」

そう言いながら手を背中へ隠し、上目遣いで中野航平を見た。告げ口の目。

中野航平の声が落ちる。

「長谷川栞。中尾美希に謝れ」

長谷川栞は信じられないという顔で振り向いた。

「……私が、被害者なのに?」

笑ってしまう。「私をあんな目に遭わせた相手に? 感謝でもしろって言うの?」

中尾美希は、かつて自分のそばで働いていた。ほとんど自分が育てたようなものだ。

花の匂いが駄目だと、知らないはずがない。

別荘で香りを感じた時点で、胸騒ぎはしていた。それでも――。

「中野社長、無理に謝らせないでください」

中尾美希が笑う。「栞さんは、私に誤解があるだけです」

「庇うな」

中野航平の目は氷のように冷たい。「お前が甘すぎる」

――つまり、自分は栞に甘くしすぎた、とでも言いたいのだろう。

またしても、迷いなく中尾美希を選ぶ。

長谷川栞の下腹がきゅっと締まった。鈍い痛みが走る。

――子ども。

彼女はさりげなく腹を庇い、唇を結ぶ。もう一言も説明しない。

車内は凍りついたまま、病院に到着した。中野航平が先に降りる。

「栞さん、身体が大事です。意地を張って、自分を傷つけないで」

中尾美希が囁く。幼い蓮は、その言葉に混じる棘に気づかない。

長谷川栞の顔色がさらに白くなる。腹を押さえ、冷たく中尾美希を見た。

「昔、あなたを助けた私が悪かった。その結果は受けた」

ドアを開け、降り際に言い捨てる。

「……自分のしたこと、ちゃんと背負いなさい」

中野社長の妻が、そんなに簡単だと思う?

中尾美希は鼻で笑った。

長谷川栞さえ追い落とせば、中野航平の隣で一番近い女は自分になる。妻の座など時間の問題――そう信じて。

長谷川栞は数歩歩いたところで眩暈に襲われ、膝が折れかける。

その瞬間、中野航平が咄嗟に抱きとめた。

「医者!」

「誰か来い!」

腕の中で、長谷川栞が小さく震えている。

掌に収まるほどの顔は紙のように白い。その白さに、中野航平の胸がざわついた。

看護師がストレッチャーで彼女を救急へ運ぶ。

救急室。医師が問診する。

「重度のアレルギー反応です。薬を――薬剤アレルギーはありますか」

長谷川栞は腹に手を当てた。

「……妊娠しています。強い薬は使えません」

「妊娠?」

医師が目を見開く。「しかし症状が重い。このままだと神経麻痺、窒息の危険もあります」

「胎児に影響の少ない範囲で、お願いします」

意識が遠のく中、長谷川栞は必死に言う。「それと……妊娠のことは、夫に言わないでください」

「本来なら、それは――」

「私は長谷川グループの娘です。責任は私が取ります。お願いします……」

言い切る前に、長谷川栞は処置台の上で意識を失った。

救急室の外。

手術灯を見上げ、中野航平は拳を握りしめる。

ただのアレルギーだ。大丈夫だ。

そう言い聞かせ、息を吐く。

その時、服の裾に指が触れた。

湿っている。

瞳孔が縮む。

――血。

長谷川栞の血だった。

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